僕は子供の頃、いやいや今でもそうだが、そうとう"アホな子"だったようだ。
僕が生まれた昭和30年代、戦後の高度成長期だったのだろう、子供には習い事をさせるのが流行だった。うちの場合はピアノだった。今でも覚えているが、5歳位かな?近所のチョー怖いオバちゃん先生の個人ピアノ教室に通い始めた。101匹わんちゃんに出てくる、クルエルシーのような痩せてて、睨まれたら何も言えなくなるような女先生だった。そこに通い始めた、一番はじめの日の事、、、。
でかいピアノの前に座らされ、もちろん足なんかペダルに届くはずもなく、ぶ〜らぶら!。チョー怖い先生は『さあ弾いてみて!!』って開口一番。弾いてみてって言われたって、弾けないから来てるんでしょ?と、今だったら言いたい所だが、5歳の新川はどうしよ〜?どうすればいいの?
仕方がないので、なんか鍵盤を足ぶらぶらさせながら、山下洋輔のようにバンバンぶっ叩いた記憶は、今でも恐ろしい思い出として覚えている。
でもその後、あんたは1日8時間もピアノで遊んでたのよ〜と、最近になって母から教えられた。が、しかし、そこの記憶はまったくないのだ、、、。まぁ、怖い先生に脅されてか、逆にそうとうハマっていたのには違いない。
小学校に上がる時、当時、越境入学というのが流行っていて、僕は渋谷区恵比寿の小学校に入るはずだったが、電車で行かなければならない、港区の白金小学校に入った。当然、近所の遊び仲間とは別れる事になり、けっこう寂しかった。でもその後、白金ではギタリストのCharとも知り合うのだが、そういえばCharも戸越だから、奴も越境入学だったんだな〜。まぁ、Charの話はまた後日にしよう。
うちの母は詩人で、本も出版し当時はテレビとかにも出ていた。ちょうど、白黒放送からカラー放送になる頃。まさにそのチェンジの日も収録があったようで、着ていく着物の色がこれでいいか?と父に聞いていたのを思い出す。NHKがまだ内幸町にある頃だったな、うちの車で送って行ったっけ。
そんな母だったが、自分が子供の頃は戦争中と言う事もあり、まともな教育が受けられなかった事も手伝って、僕を越境入学させたのだろう。だったら、どっか私学の幼稚舎にでも入れてくれれば良かったのにね、でも駄目か?僕はそうとうアホな子だったからな。
そうそう、その白金小学校の面接試験の事も母から聞かされた。面接官の先生が花瓶の絵を指して、これはなんですか?と僕に質問した。僕はデカイ声でオボン!と言ったらしい。先生も母も口をあんぐり。この子、頭がおかしくなったのかと思ったと母。
次にオレンジ色を指して、新川君これは何色?と先生。瞬時に僕は"ふぁの色"と答えたそうだ。もう母はすぐにでも帰りたいと思ったそうだ。
後で、ふぁの色って何?何でオレンジ色が、ふぁの色なの?と母に問いたださた。今度は僕が口をあんぐり?
いやいや、当時、僕はピアノを毎日8時間も練習しているでしょ、一番初めはデカイ譜面で、そのおたまじゃくしが塗り絵みたいになっていて色を塗る。色音符というやつだ!その、ドレミファのファがオレンジ色だったのだ。だから、もうオレンジは何色と聞かれれば、すかさず瞬時にファの色!!でしょう。
やっぱ、そうとうアホな子だったようだ。
でもね、その3〜5歳に覚えた事は、今でも確実に反映している。自分でも不思議な位だ、だからね、本当にいまでもKeyがF(ファ)の曲はどうしても、オレンジ色の光が見えて来るのですよ。
"三つ子の魂百まで"とは、こういう事なんだろうなぁ〜。
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