ハイファイセットの仕事を始めた僕はニックネームをつけられた。ある日、潤子さんが「お前はシンスケだ!!」と酔っぱらいながら言った。????。新ちゃんとはよく呼ばれたけど、シンスケは初めてだった。なんでもコメディアンの三波伸介に似ているからだと言う。皆さん間違わないで下さいね!島田紳助ではありませんから!見りゃ解るちゅーの!また、こんな話もある。携帯も無い時代である、自宅に電話がかかり、お袋が出て「シンスケさんお願いします」と言われたそうだ。お袋はムッとして家にはシンスケと言う者はおりません!!ガチャと切ったという。何とも迷惑なニックネームだった。
その頃、ハイファイセットは年間120ステージもこなしていた。120と言えば1年が365日、3日に1回である。地方公演だと移動日もあるから、ほとんど毎日ステージをやっていた印象だ。当時〝フィーリング〟という曲がオリコン6ヶ月間連続1位という快挙で、それはもう凄まじい忙しさだった。日本全国、北海道から沖縄まで津々浦々、本当に良く回った。最初は行く街、行く街、初めてだから観光気分で楽しかったけど、もう10回、いや大都市などは50回以上は行っていたので、楽しいは通り越していた。
当時ハイファイセットの山本俊彦、潤子夫妻は目黒区緑が丘に一軒家を借りていた。この写真はそこでのパーティー?誕生会?。よく判らないけど、何か東京に居るときは、いつもこんな感じだった。バンドメンバーやPAチーム、マネージャーやら大勢いる。真ん中あたりがシンスケだ!左右上に若き日の山本夫妻が写っている。ここの家では僕は本当にお世話になって、新しいレコードを大量に聴かせてもらったり、ご飯をごちそうになったり、酒も一杯いただいた。本当に感謝である。
しかし、この写真の頃はハイファイも含め全員が20代だったのだ。若かった!!
そんな日々を5年も過ごしたある日。ハイファイセットはいきなり“休業宣言”をすると言い出した。爆弾発言である!!彼らはニューヨークに渡り、本場のジャズを勉強するのだという。こんなに売れっ子グループだったから衝撃も大きい。今なら変なワイドショーネタでゲスな勘ぐりでもされそうなものだが、当時は純粋に“音楽の為”が通ったのだ。素晴らしい!!赤い鳥からハイファイセットそして、ジャズの勉強の為に休業!エライ!!なかなか出来るモノではない。
でも、、、、、。僕らバックバンドは失業だぁ〜〜〜〜!!どうしよう??
そして、、、、。
捨てる神あれば、拾う神有りって言うんですか?ちょうどその頃、荒井由実から松任谷由実になっていたユーミンからお誘いがあり、僕とドラムの重田君はユーミンチームに参加することになるのです、、、。 To Be Continued
わ~
そして、Hi Fi Setから、ユーミンへと続くのですね
お次はどんなお宝写真が出てくるのでしょう
わくわく
投稿情報: ドレミ♪ | 2009/03/27 14:10
フロントに居わすは、、
タケシとカオルちゃんだよね。。。みんな若い
投稿情報: junko | 2009/03/28 08:14
すごい
新川さん、若ーいですぅ
あどけない感じが~
投稿情報: ☆ゆうちゃん☆ | 2009/03/29 01:18
すごい、、お宝写真ですね。。
ほんとみなさん、お若い、、、
そして、この白黒の写真って、
とても味があるというか渋くていいですね。。
特別に白黒で写したのでしょうか?
さすがにこの時期、、白黒しかないなんてことはないですもんね。
(*≧艸≦*)
投稿情報: コルベット45 | 2009/04/01 09:18